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ランナーズ45周年にあたって

  • 直井誠
  • 2021年11月21日
  • 読了時間: 3分

 今から30年程前、50歳近くなってから一人で夜、公園を走り始め、10㎞の大会に初めて参加した。その後、ランナーズに誘われ、当初はお断りをしたが入会し、フルマラソンを走るようになった。さらにウルトラ、さらに山岳ランにと幅を広げられたのは多士済済な会員の皆さんがいたからである。特に山岳耐久レースは、お店をやっているKBさんによるところが大きい。

私は今や後期高齢者となり、足だけでなく身体のあちこち、眼も悪くなり、さらに認知も入り、走ることは最早できなくなってきた。5年後のランナーズ50周年にはどうなっているのか分からないので、私のランニング人生の印象深いひとコマを巻き戻す。

HAさんとともに富山湾から常願寺川を遡る大会に参加した。その翌日「芦峅寺(あしくらじ)」にある慰霊碑を訪れることができた。

 その慰霊碑とは、今から約100年前、1923年(大正12年)1月に立山で遭難した板倉勝宣氏の碑である。1921年(大正10年)9月、槇有恒氏がアイガー東山稜を初登攀し世界を驚かせた。その1年余り後に槇、板倉、三田幸夫の3氏で入山し、吹雪の中で板倉氏が亡くなった。

その板倉氏は、私の先生の板倉勝正氏の叔父様にあたる方である。先生はヒンドュークシュ山脈のコーイバンダコール峰初登頂の隊長をなさった。もう半世紀も昔のことであるが先生と白馬岳の北にある朝日岳に登り、小川温泉に降りたことがある。その頂上付近にエーデルワイスが沢山咲いているのを見て、登りながら「勝宣さんの『遺稿』にはエーデルワイスの花が飾られている」とご機嫌に話されたことを昨日のように私は覚えている。その勝宣氏の碑を是非とも訪ねたいと永年想っていた。

HAさんに「芦峅寺の慰霊碑を訪ねたい」と話すと、北海道大学山岳部のHPを調べ「北海道、學習院、慶應義塾の各大学山岳部、および芦峅寺関係者により、荒れていた碑を修復するとともに新たに説明板が設置されている」と教えてくれた。それは富山県立『立山博物館』に付属する『立山曼荼羅の里』の一角にあった。お参りをして広大な曼荼羅の里を散策したのもよい思い出である。後日、板倉家の菩提寺である駒込の吉祥寺のお墓に参り、多くの方々のお力により碑が綺麗に修復されていることなどを報告することができたのは大きな喜びである。

 私の心残りの一つは、アフリカに行くことができなかったことである。サハラ砂漠の大会に参加したいと退職し、ザックに重りを入れて善福寺川の右岸、左岸の坂を交互に走ったり、フランス語教室に通ったりしたが。私の部屋の飾り棚には頂いた品、自分で集めた品々などを並べているが、何度もアフリカに渡った今は亡きUDさんが撮影したサハラ砂漠の写真、HAさんに撮ってもらった慰霊碑の写真なども飾られている。

昔、長老のKUさんは冬の暗いなか、公園を毎朝コツコツと歩いておられた。その後を継ぐように、今、私は毎朝、雨でも風でも善福寺川緑地を徘徊している。


 
 
 

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